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橋本努講義「政治経済II」小レポート2007 no.1.

ときどき講義の最後に提出を求めている小レポートの紹介です。

最初に、本年度の最優秀レポート(川村奈々美さん)を紹介します。

 

 

小レポート第3 回目 「救急車が来たら親指を隠せ」2007年7月4日

経済学部経済学科3年 川村奈々美

 

1.       テーマについて

 私が借りているマンションは13条門、つまりは北大病院のすぐ近くに位置する。住みついた当初は救急車の音が耳につき、よく頭を悩ませたものだ。一人暮らしを開始してから2年目に入った今日、サイレンの音は念仏の如く耳を通り抜けるようになったが、私は先日、ふとあることに気づいたのである。それは私の変な癖についてだ。甲高い音が遠くで響く度に、無意識のうちに両手(又は片手)の親指を握り締め、拳を作っていたのである。思い返してみると、私は日常的にこの行為を繰り返している。救急車の例以外にも、道端に落ちたカラスの羽を見た時や、葬式に行った時などだ。すなわち、不吉と感じるものに遭遇した時、私は必ず自分の親指を隠すのである。今回はテーマが自由ということで、この強迫観念にも似た私の呪術的行為に関して記述したいと思う。

 

2.       「呪術」とは

 私の癖を分析するために、まず「呪術」について触れる。「呪術」と聞くと、何やらおどろおどろしいイメージを思い描かれることだろう。それはきっと「呪」という字から、瞬時に「のろい」という言葉を連想してしまいがちだからだ。しかし、同じく「呪い」と書いて私たちが「まじない」とも読むように、ここで用いる「呪術」は「まじない」の意味合いが強い。それは極めて中立的なものであり、私たちの生活に深く根ざしている。朝のニュースで占いを見る行為も、立派な「呪術」と言えるだろう。この言葉を定義付けるならば、次のようなものが相応しいと思う。

 「善悪を問わず、何らかの目的から神・精霊といった超自然的存在や非人格的な呪力に頼って自然の運行に介入し、意図通りの様々な現象を生じさせることができるという信念の体系、またはそのような思考にもとづいた儀礼的行為全般。」

 この定義をもとに考えていくと、「神・精霊といった超自然的存在や非人格的な呪力」という、科学の理論・法則を越えて存在するものを「呪術」は前提としているわけだが、それは必ずしも科学と相反するものではない。確かに“正しい”自然認識を基盤とする科学的法則性とは異なり、「呪術」は“誤った”自然認識から派生したものである。しかし、「呪術」は科学とある面共通した世界観を持っているのだ。その世界観というのは、「現象の因果継起は不変の法則によって決定されるものであり、かつその法則の効果は正確に予断・計算することが可能であるため、この法則に基づく思考・言動は合理的である」という信念に基づいたものである。つまり、科学も「呪術」も、私達が世界を認識するための道具なのだ。理性的な人間としては科学が、自然の内にある生物としては「呪術」が、私達の足元を照らす光となるのである。そして「呪術」において最も大事な点は、科学のように理論的な説明がなくとも、私たちが無意識の内にその不可思議な存在を共有し、時を超えて、その言動に何らかの共感を持ち得てしまうということなのだ。

 事実、現代の日本でも、「呪術」や呪術的世界は間違いなく生きている。それは規則や法律のように明文化されていなくとも、私たちの習俗として、まるで空気のように存在するのである。そしてそこはかとなく、しかし厳然としてあるその特質のために、私たちは自分が日常的に行う呪術的行為に関しても、それをいちいち認識することが出来ず、無意識の内にそれに支配されているのだ。そして、たとえ理性では否定しても、誰しもが本能のように、直感では肯定するしかない内的規範として「呪術」を抱いているのであり、それなくして社会は成り立たないと言っても過言ではない。このようにして、「呪術」と明言されない「呪術」がいつも私たちの隣にある。それは例えば、前述したような私の変な癖であり、占いや夏祭り、年中行事などが挙げられるだろう。

 

3.       「呪術」の特徴

 呪術はその性質の違いにより、積極的なものと消極的なものとの二つに区分することができる。前者はいわゆる「縁起が良い」とされるモノ(白呪術)であり、逆に後者は「縁起が悪い」、またはタブーとされるモノ(黒呪術)のことだ。前者の例としては、店の主人が人やお金を招くという招き猫を店の前に置く行為や、「茶柱が立つと良い事がある」という言い伝えなどがある。一方後者は、前者と同様に「しゃっくりが百回出ると死ぬ」などという俗信であり、葬式や死を連想してしまう「合わせ箸」(自分の料理を他の人に渡すとき、皿を使わずにお互いの箸と箸とで渡しあうこと。葬式の際は、合わせ箸により亡くなった人のお骨を運ぶ。)を禁ずるなどの、マナー的なものも多く見られる。

 私の癖を解析するにあたって、今回注目したいのはこの後者の方だ。その理由は主に二つある。第一に、不吉なものに遭遇した際、意識的に手を握らないようにすると、何か悪いことが起こるような漠然とした不安が生じるためだ。そして第二に、後者の俗信の方がより強く呪術性を感じるからである。このように私が感じるのは、前者の迷信は「〜すると良い」・「〜すると良いことがある」というように、その行為の効用が極めて抽象的なものであるのに対し、後者の俗信は、「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」・「夜に口笛を吹くと蛇が出る」などと、発生する悪い事態の内容が大変具体的であり、言葉自体に様々な状況を思い起こさせる暗喩が含まれているためだ。また、考えようによってはその影響が本人だけに及ぶものではないものが、後者には多数存在する。さらに言うと、前者は先人が日常とは違うことを気ままに行った際、たまたま良い事があったと言うような経験的事実を軸にしていると推測できるのに対し、後者は普段何気なくやってしまうようなことまでも禁止している点に、経験則だけでは説明できない所が多分に含まれているのである。

 以上の理由により、私は後者の俗信をもとに自らの癖について意味を見出そうとしているわけだが、その材料として、上記にも挙げた「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」という俗信を選択しようと思う。ちなみに私がこれを選択した訳は、私の親指を握り締める癖は、むしろ親指の爪を隠そうとしているのではないかという推測から、爪に関わる俗信を探した結果であり、また、これを知らない者はおそらくいないと思われたからだ。次にこれに関して調べたことをまとめていく。

 

4.       「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」

 この言い伝えが広まった理由として、次のようなものがある。それは、照明装置がまだ発達していなかった時代では、今のような機能的なツメ切りはなく、深爪をして怪我をしやすかったために、それを注意することが目的で言い伝えられたという説だ。

 しかしこれでは、「親の死に目に会えない」などという奇妙な「罰則」がついた説明にはならない。注意することが目的ならば、「夜爪を切ってはいけない」、または「夜爪を切ると悪いことがある」だけでも充分だからである。そこで、「親の死に目に会えない」という「罰則」がついた理由を調査し、以下に列挙してみた。ちなみにこれらの情報は、書籍やインターネットでの検索、そして聞き込みから得られたものである。

 

@.    上記した説明とも重なるが、昔は電気もなく刃物で爪を切っていたために、夜に爪を切ると誤って自分の足を切ってしまい、その傷がもとで破傷風に罹り、親よりも先に死んでしまうかもしれないから。

 

A.    江戸時代では城の門番の夜間勤務を「夜詰め(よづめ)」と呼んでおり、この俗信はその「夜詰め」が「夜爪(よづめ)」にかかって出来たものであって、「夜詰め」の仕事は大変重要で、たとえ親が死にそうになっても家に帰れなかったことから。

 

B.    「夜爪」はすなわち「世詰め(よづめ)」であって、夜に爪を切ると自分の余命を詰めることになり、短命で親より先に死んでしまうと考えられていたから。

 

C.    江戸時代では儒教の教えによって、親からもらった体の一部を無くすことは親不孝の始まりと言われており、夜に暗がりで爪を切ると、切った爪がどこかに飛んでしまうことがあることから、親からもらった大切な体の一部を粗末にしてしまうことを戒めるため。

 

D.    夜に暗がりで爪を切ると、どこかに飛んでいってしまった爪が誰かの手に渡り、呪いをかけられ早死にするかもしれないから。

 

E.    昔は葬式の時に爪を切って棺に入れる風習があったため、爪を切ることから死を連想し、いつ切ってもいけないというわけにはいかないので、夜という限定を設け、さらにこれを制裁の形に作り上げるため。

 

 @については付け焼刃の理屈に感じるが、あり得ないとも言い切れないので、一応記しておいた。次に呪術的要素を含むA〜Eについて、詳しく見ていく。

 

 AとBは、いわゆる言霊思想から派生したものである。言霊思想は、声に出した言葉が現実の事象に対して、何らかの影響を与えるという考えに基づいている。要するに、良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると悪い事が起こると考える信仰のことだ。このように、「言」が「事」に影響を与えると考えられるようになったのは、古代において、この二つが同一の概念だったという所にその起源がある。これを裏付ける事実としては、『古事記』で事代(ことしろ)(ぬしの)(かみ)(出雲の主神である大国主(おおくにぬしの)(かみ)の子)が「言代主神」と記されるなど、他にも「言」と「事」とを区別せずに用いている文献が多く見受けられることが挙げられるだろう。

 したがって、「よづめ」という響き自体が「夜詰め」・「世詰め」のいずれにしても忌むべきものなのであり、それを連想させる行為自体もまた避けられたと考えられる。そして後半についた罰則は、その言葉(「夜詰め」・「世詰め」)が惹きつける事態を暗示したものなのだろう。すなわちここには、似たものは似たものを生み出すという、「呪術」の「類似の法則」が働いているのである。

 ちなみにこれと同様の考え方で、「朝に爪を切ると貧乏になる」という俗信もあるらしい。これは朝が出かける前であることから、「出爪」に「出詰め」がかかり、出るもの(お金)が詰って、お金の流れが悪くなるためというのが理由なのだそうだ。しかし私の周りにこれを知っている者はいなかったので、実際に現在も伝わっているかどうかは疑わしい。

 

 Cでは儒教の教えがその根拠となっている。儒教で最も重視されているのは「仁」(=思いやり)の思想であり、確かにその出発点とも言える「孝」(=子の親に対する敬愛の気持ち)は、「仁」と同様に尊重すべきものだ。したがって、親からもらった体を粗末にするような親不孝をしてはいけない、という考えが出るのも十分に分かる。しかしここで疑問に思うのは、切った爪を無くすことが親不孝になるのに、切った爪を捨てる行為は親不孝にはならないのか、ということである。これに関していろいろと調べてみたが、結局望むような資料を見つけることは出来なかった。推測するに、切った爪を無くして、そのまま放っておくという態度を親不孝と言いたいのだろう。

 またこの説では、「親の死に目に会えない」という罰則がついたのは、親不孝を戒めるためだと説明しているわけだが、今一不十分に感じる。私の解釈としては、体の一部を無くすという親不孝の第一歩が、親よりも先に死ぬという最大の親不孝へ繋がることへの警告なのではないかと思う。

 

 Dには、上記した「類似の法則」と共に「呪術」の原理の一つである、「接触の法則」が関係している。これは、かつて接触していたものは、接触しなくなっても互いに作用し続ける、という法則のことだ。したがって、以前まで体の一部であった爪に呪い(のろい)をかけられれば、その危害が本人に及ぶというのである。ちなみに、わら人形に恨みのある人の髪の毛を入れ、五寸釘を打つという有名な呪いの儀式も、この法則に従っている。

 

 Eでまず疑問に思うのは、昔の人は何故棺に爪を切って入れたのか、ということである。これについて調べたところ、井之口章次著の『日本の葬式』に有力な情報を見つけたので、以下に簡単にまとめる。

 “昔はずだ袋の中に近親者の爪や髪の毛を入れ、それを棺に納める行為が広く伝わっていた。死者が男の場合は、その妻が髪を切って入れることにより、貞節を守るという誓いの意味もあったのである。そして妻だけではなく、親族一同の爪を入れる理由としては、死者が地獄に行った際、爪を抜いた指で筍を掘らされるのを助けるためとか、冥土で死者がその爪で水をすくって飲むため、などという説が例に挙げられる。”

 そして最後にこの本では、“生死の境に故郷の水をそそぎ、その魅力によって遠い旅立ちの心をひるがえさせふたたびこの世につなぎとめようとするのと同じように、親類縁者の体の端くれを入れることによって、生き残った人と同じ世界にあることを示し、また願うのが元の趣旨ではなかったろうか。(引用)”として棺に爪を入れる理由をまとめている。

 確かにこれは、「夜に爪を切ると親の死に目にあえない」という俗信に根拠を与える習俗ではあるが、「死」を連想させるものとして、「親の死に目に会えない」という罰則がついたと言う理屈は、あまりに短絡的すぎる気がする。それならば、「夜に爪を切ると早死にする」とか、「夜に爪を切ると身近な人が死ぬ」などの方が相応しく感じるのである。

 ちなみに、何故こんなに爪が重視されているのかというと、昔は人体の一部である爪には、霊魂が宿っていると考えられていたためだ。その理由までは知ることが出来なかったが、日本書記にも、「謹んでおのれの爪を収めよ」という記述が残っているらしい。事実、現代でも爪に関する俗信は多く存在しており、今回取り上げた俗信の他にも、「霊柩車を見たら親指を隠せ」などがある。この俗信は、悪しきものは親指の爪の間に侵入するという考えに基づいており、それを阻止することが目的にあるそうだ。

 

 ここまで、「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」という生きた俗信に関して考察してきた。上に挙げたどの説が正しいのかは分からないが、それぞれに「呪術」の大事な特徴が含まれていたと思う。このように、一つの俗信を調べただけでも実に多くの解釈があり、  「呪術」が巧みにその姿を変えて現代まで生き残ってきたことが知られるだろう。

 私はこの他にも、「夜に口笛を吹くと蛇が出る」・「真夜中に茶碗をたたくと蛇が寄ってくる」・「御飯粒を踏むと目がつぶれる」などの俗信に関して調べてみたが、そのどれもが言葉以上のことを物語っており、科学的に解釈されたり、呪術的に解釈されたりしていた。またその解釈のいくつかには、共通した思考過程があったことも注目すべき点だろう。これらの事実から考察すると、現代に生きる「呪術」の大きな特徴としては、呪術性をあまり感じさせないこと、そして呪術的にも科学的にも多様に解釈が可能であることの二つが挙げられると思う。きっとこのような柔軟性を持っていなければ、その「呪術」は異質なモノとして、細かに分断されて何かに組み込まれるか、微塵の欠片もなく排除されてしまったに違いない。

 

5.       まとめ

 もうご想像の通り、私の癖の答えはEにある。私の場合は「霊柩車を見たら親指を隠せ」ではなく、「救急車が来たら親指を隠せ」だったわけだ。サイレンがなる度に私が手を握っていたのは、不吉なことから自分を守るためだったのである。だからと言って、霊魂の存在を積極的に肯定しているとは思わないで欲しい。だが、私は目に見えないものを全否定するような、想像力のない人間でもないのである。Eの爪に関する説明には、何かしら私をうならせる力があるのだ。しかし不思議なことに、私には、この俗信を誰かから聞いた覚えはない。そもそも、今回爪について調べて初めて知ったのである。(そのせいでこのレポートはかなり遠回りをしてしまった。)しかも両親さえも聞いたことがないというのだから、私は一体どこでこんな思想を持ち得たのだろうか。

 もしも私の癖が、上述したような潜在意識のもとで成されていたとすれば、私はここに一つの事実を見る。それは、人種や住む世界は違っても、人類は皆繋がっているということだ。確かに世界の神話を読み比べると、近親相姦など、共通項が多数見受けられる。また、日本で「夜に口笛を吹くと蛇が出る」と言われるように、夜中に無闇に音を発することを禁じる風習が、世界各地で存在している。これには、近所迷惑だという形式的な理由以外に、音は良いものだけでなく悪しきものさえも惹き付けるという呪術的思想が、その根本にあるのではないか。このように、私たちの潜在的かつ根拠のない感覚はグローバルに共有されており、「呪術」の前では皆が平等なのだ。この点にこそ「呪術」の真の存在意義があると思う。

 最近の世の中は、このような思想をまるで雑草のように扱うため、実に生きにくい。格差が頻繁に叫ばれ、「有効性」や「効率性」というキーワードが氾濫し、明確に形を持つ事実だけが、所狭しと並べられる。“意味のある”ものを優先し、“意味のない”ものは淘汰すべきだという考えを、誰もが心の中で戒めているはずだ。そして、これらの圧力が殊のほか強いために、重責に耐えかねて、人々は自己を見失ったり、子供染みたボイコットを始めたりするのである。日本の自殺率が世界第10位という高水準にあるのも、こうした風潮が問題なのだ。自殺を報じるニュースで、亡くなった人の最期の言葉として、「生きている意味がない」という決まり文句が流れる度に、「意味がなくて何が悪い」と私は思う。そもそも、「生きている意味がない」ことが、どうしてすぐ「死ぬ意味がある」ことに結びつくのか不思議でならない。このように、呪術的思考を潜在意識の片隅にしか住まわせていないであろう人々は、“意味のない”ものを“意味のない”ままにすることが出来なくなっているのではないか。そして恐らく、彼らが何かに意味を見出そうとする際、その思考過程は実に合理的で、かつ客観性を伴ったものなのだろう。「呪術」は、“意味のない”ものを守る壁であり、“意味のない”ことから人々が脱するための扉である。このように空虚で深いものへ私たちは今一度手を差し伸べるべきだ。               

 以上のような取り止めもない、“意味のない”ことを考えながら、今日も私は親指を握っている。

7,447字)

 

(注)このレポートの特に2.「呪術」とは 3.「呪術」の特徴 については、以下の参考文献の他に、大学1年に受けた一般教養の講義、[社会の認識「呪術・科学・神話を考える」]で学んだことも参考にしている。なお、[社会の認識「呪術・科学・神話を考える」]の期末レポートで書いた内容を、2.と3.では一部そのまま利用した。

 

《参考文献》

l         J.G.フレイザー著 神成利男訳 『金枝篇 呪術と宗教の研究 第3巻 〜タブーと霊魂の危機〜』 国書刊行会 2005年  

l         井之口章次著 『日本の葬式』 筑摩書房 2002年  

l         中山太郎編 日本民俗学辞典』 昭和書房 昭和8年

l         ホームページ『雑学シリーズ』(http://www.hpmix.com/home/tshige/D15_8.htm)

l         ホームページ『フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 

 

2007年7月4日 政治経済学部U 小テスト

1ネオコンの国内政策について

経済学部経営学科3年 川村奈々美

 

 ネオコンの国内政策について述べるにあたり、230ページのポルノグラフィーについて考えたいと思う。ただし、本稿で用いるポルノグラフィーには「エロティカ」は含まれないことにする。

 ネオコンは「低俗な欲望をいかにして道徳化するか」という問題を探究する思想であり、品位を貶め「勤労エートス」を挫くポルノグラフィーの全面的禁止を主張する。性を汚し、公的な市民生活を野蛮に貶めるものは徹底排除するというのだ。

 見渡してみると、確かに、日本はポルノグラフィーが溢れている気がする。コンビニへ行けば、必ずアダルト雑誌が窓際を占領しているし、インターネットで調べものをしていても、画面の隅っこにあるバナーを適当にクリックしようものなら、たちまち卑猥なサイトにつながってしまうこともある。

 何故このような事態が許されているのか。それはやはり、ポルノグラフィーを人前では不快だと罵りつつ、誰も見ていない所ではこっそり需要する者が幾らでもいるからだ。したがって、このような者達の意識を変えない限り、ポルノグラフィーの全面禁止=意識の高次な進化へとはならないだろう。むしろ抑圧すればするほど、それを利用していた者たちの欲望が、性犯罪を引き起こしかねない。講義で教授が話されていたが、アメリカなどはその良い例だ。アメリカは、日本と比べるとかなりポルノグラフィーに対する規制が強い。それにも関わらず、日本よりも性犯罪がずっと多いのである。やはり、そもそも性がなければ子孫が残せないように、それは切っても切り離せないものであって、全てを禁止するということ自体難しいのだ。

 だからと言って、私がポルノグラフィーの存在を消極的にも寛容しているわけではない。私の考えとしては、今後の社会は節度をもってポルノグラフィーを扱うべきなのである。つまり、見たくない人には見せないようにすべきだ。最近は、インターネットの新たなサービスとしてこの動きが出ている。子供がインターネットを利用する場合などに備え、卑猥な、教育上良くないサイトへはクリックしても飛ばないようにしてくれるのだ。このような仕組みを私たちは積極的に取り入れるべきである。ひとまずすぐに出来そうなこととしては、コンビニに堂々と掲げられたエッチな雑誌を本棚の隅へ移してもらいたい。

 以上により、ポルノグラフィーを全面禁止しても、人々が道徳化するわけではないことを述べた。では一体どうすれば人々はその徳を高められるのか。それを考えるために、私はポルノグラフィーと男女交際の捉え方の変化との関係を考えてみたい。

 男と女のあり方は、時代と共に多様化していった。これは資本制経済の発展により、一般庶民と呼ばれる人々が経済的に豊かになり、女性の地位向上を図る運動も活発化して、人々の意識が変化していったためである。以下では、日本の江戸時代から現在までの男と女の関係をざっと遡ってみる。

 江戸時代の、特に武士階級などの結婚は、親同士が決めた相手とする「強迫結婚」であった。つまり男と女の関係は決められるものなのであり、そのことに疑問を持つこと自体非難されることだったのだ。ところが明治初期に入ると、日本の知識人はこの男女の関係に疑問を持ち始めたのである。彼らは男女平等の文明社会を目指し、キリスト教的概念である「愛」と「恋」を結びつけた「恋愛」を奨励し始めたのだ。そしてこの頃から、性欲は下等な動物的欲求だという意識が生まれ始めるのである。

 続いて明治30年代には、「恋愛」という言葉も日本語として一般の人々に定着した。女学生と学生の恋物語が文学に描かれ、「一部のインテリ男女の恋」として、憧れと好奇心をもって迎えられたのである。だがその一方、上流階級の結婚は未だに「強迫結婚」が主流であり、古い考えは根強く残っていたことも事実だった。そしてこの時代に最も注目すべきなのは、「愛」はキリスト教的「清純さ」を持つものとされ、夫婦愛、プラトニック・ラブと、性欲=肉体関係は明確に分離されたことである。

 現在、自由恋愛は当たり前であり、結婚が恋愛のゴールであるとの認識を持たない人も多い。これは私の偏見かもしれないが、今や恋愛をすること自体が一種の嗜みとして目的化しており、付き合ってうまくいかなければすぐに別れれば良いと考える人が少なくないのではないか。

 以上の流れを読むと、あることに気づく。それは、資本主義が浸透する程に、性と愛は切り離され、性欲は低次元のものへとして貶められているという事実だ。そしてその存在が社会的意識において虐げられる程に、性欲は一種のマゾ性を帯びて、ポルノグラフィーとして具現化し、私たちの前に表れているような気がする。もちろんこの考えは私の勝手な推測にすぎず、何の根拠もない。だが、あらゆる年齢の人にポルノグラフィーを一日何回目にしたか、時代を遡って年代毎にデータをとることができれば、私のこの言い分に根拠を与えてくれる統計的資料がもたらされるかもしれない。是非やってみたいものだ。

 そしてもう一つ、ポルノグラフィーと男女の関係の変化について考えられることがある。ただ以下の考えは、おそらく男性にとって大変不快なものだろう。しかしポルノグラフィーを目にする不快さを多くの女性は今まで我慢しているのだから、一つの解釈として聞いてほしい。

 それは、男女平等の風潮により、男性の征服欲が阻害され、その反動がポルノグラフィーとなって表れているのではないかということだ。最近はバランスがとれてきたが、一時男女平等が極端に叫ばれ、男の方は実に肩身が狭い思いをしたはずである。(おそらくそれは今もなのだろうが。)両手を挙げて満員電車に揺られ、セクハラ呼ばわりされないように、会社で女性社員と接する時は、細心の注意を払ったことだろう。そしてこんなに気を遣ってやっているのに、ひとたび女性と仕事のことなどで口論になれば、(女性は男性よりも一般に頭の回転が速いと言われているため、)滝のように流れる言葉でまくしたてられたり、目の前で泣かれたりするのである。一昔前なら、「女は黙ってろ!」と平手打ちをすれば済んだはずなのに。

 おそらく、このようなストレスがポルノグラフィーに反映されているのではないか。それを裏付けるかのように、ポルノグラフィーの大半は男性異性愛者の女性観を表現したものであり、かつ女性蔑視的傾向が強い。

 以上により、ポルノグラフィーと男女交際の捉え方の変化との関係を示した。これによって、ポルノグラフィーの本質とは何であるのかについて私なりの結論を導けたと思う。それはすなわち、ポルノグラフィーとは、“資本主義・男女平等など、人間を道徳化させる勢力に対する反発意識の集合体”なのである。

 この定義で考えれば、次のようなジレンマに陥るだろう。それはすなわち、「ポルノグラフィーを寛容することは人を堕落させてしまう。しかし、人を高次な存在にするためにポルノグラフィーを全く否定してしまうと、その反発としてまた必ずどこかでポルノグラフィーが現れてきてしまう。」というジレンマである。

 では一体どうすれば良いのか。どうしたら私たちは道徳的人格者になれるのだろうか。この答えはおそろしい程シンプルで、おそろしい程時間を必要とするものだ。それはずばり、「バランスをとる」のである。(今や世界で起こる様々な問題がこの言葉に尽きるのではないだろうか。)私達は切り離された性と愛をもう一度結びつけ、男と女のあり方を見直すべきだ。「セフレ」などという言葉が気軽に使われたり、力や欲望だけで結ばれる関係は健全ではない。性別を超え、独立した人間としてお互いを認識し合えた時、その時にこそ、ネオコンが求める高次なる存在へと私たちは生まれ変わるのである。(3160字)

 

 

「政治経済学U」小レポート第1回目

経済学部経済学科3年 川村奈々美

 経済倫理上の主要な争点を考察した結果(A:X B:Y C:Y D:Y)、私はリベラリズム(福祉国家型)であることが判明した。

 リベラリズムについて調べた限り、これは以下のような思想であると解する。

 “リベラリズムとは個人の自由を尊重するが、単に自由放任にするとかえって不自由になる恐れがあるため、政府による富の再分配や法的規制により自由・平等を実現しようとする思想である”(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参照

 リベラリズムを上記のように定義すると、やはりこの考えには共感してしまう。確かに、私たちの社会が存続するためには創造的進化が不可欠であり、この前提として個人の自由は確保されなければならない。そして自由放任主義である市場原理主義を突き通せば、様々な弊害・社会問題が生じるため、政府の一定の介入は当然必要とされるだろう。この様々な弊害・社会問題としては、企業の利益を最大化する一連の行為のために生じる、失業問題や構造的貧困、環境問題などが挙げられる。

 ここで考慮すべきことは2つある。それは、私が何をもって自由と考えるのか、そして政府の介入度合いは何を基準に評価するのかということだ。

 私が考える自由とは、J.S.ミルが唱えた自由観と同義である。すなわち、“自由とは他者の権利を侵害しない範囲で自己決定できる権利であり、これは人間が生まれた時から備わっているもので、誰からも妨害されてはならない”のだ。この自由の定義を上記のリベラリズムの定義に当てはめると、自由放任にしても問題はないように感じるため、定義自体に矛盾が生じる。だが「小さな蝶の羽ばたきが、地球の反対側で台風を起こすこともある」という言葉があるように、誰かの些細な行為が多くの人々に損害を与えてしまうというケースは現実社会でも珍しくない。つまり、たとえ誰かのためにやった行為であっても、他の人々の迷惑となる場合もあり得るのだから、他者の権利を侵害しない範囲の判断とは、大いに主観的感覚が伴うものだと言える。したがってたとえ誰もが他者の権利を侵さないように心掛けても、人々の感覚の差異により、何らかの損害は避けられないのだ。そのため、このような損害を出来るだけ縮小し補うためにも、やはり政府の介入は必要であり、上記の定義は成り立つものと考えられる。

 このように、私が抱く自由の姿勢は他者との連帯を求めるものであり、自分も含め、周囲の大多数の者をも守ろうとするものである。この姿勢を延長して、政府の介入度合いの基準に関して考えると、次のような考え方となる。すなわち、政府の介入により結果としてより多くの人々が恩恵を受けられるならば良しとするのだ。(ただしこの「多くの人々」についてだが、この部分についてはケースによるので抽象的に誤魔化すしかない。)したがって、私はリベラリズムというよりも全体主義(個人の自由、個人の利益に対して、全体の利益が優先されるべきだ、という思想)であると答えた方が相応しいのかもしれない。

 以上のような考えを根幹におき、私がどうして(A:Y B:X C:X D:X)を選択しなかったのかについて述べていきたいと思う。

 まずAのYについてだが、「一定の商慣行に埋め込まれた」という言葉、そして企業が社員のプライベートにまで首を突っ込むという点が、個人の自由を侵害していると考えられるので賛同できない。

 次にBのX(X−1)についてだが、「経済秩序が収縮・崩壊する」と、当然それにより損害を被る人々が多く出てくるので、それさえも厭わないというこのような強行的態度には、断固として反対せざるをえない。

 CのXについては少々悩んだ所である。まず内部告発についてだが、その行為によって企業に多大な損失が生じ、そこで働く多くの人々が被害にあうと考えると、それは企業への忠誠心を欠いた背徳行為であるとも言える。しかし、企業外部の人々まで含めると話は別だ。つまり、内部告発されるような情報は企業外部の人々の、その企業に対する投資の意思決定などに大きく影響するものと考えられるため、内部告発者は彼らの「知る自由」を守ったとも言える。よって内部告発者は救済されるべきだろう。次に談合についてだが、これは公共事業を例にすると分かりやすい。公共事業に支払われる対価は国民の税金である。したがって談合により価格が不当に高められると、その不当に高められた金額を他の活動に使い国民に恩恵を与えられたと考えれば、国民を害したことになる。したがって多くの者に損害を与える時点で談合はもはや「理」をもたず、阻止されるべきである。三つ目の家庭内の封建道徳についてだが、これは個人の極めて内面的な考え方に深く根ざすので、特に言及するつもりはない。

 最後にDのX:包摂主義についてだが、確かに「主体の自律化」のための温情的な措置であるとすれば、この考えにも賛成できる。しかし、社会の進化をもたらす個人の自由を尊重すると、政府の干渉は必要最小限に留めるべきであるという立場を重視したい点でY:悲包摂主義を選択した。

 以上をもって反対意見に対する異議とする。

2,096字)

 

(修正)

 上記のレポートに記した考えは嘘ではない。だが私の最初に出た本当の結果はA:Y B:Y C:Y D:Yであり、「八つの倫理的立場」に該当するものがなかったため、考え直してしまったということをここで訂正しなければならない。レポート自体を修正しようと試みたが、上記のレポートは私の考えをある側面から表現したということで偽りはなく、下手に手をくわえると論理的一貫性を欠いてしまう恐れがあったので出来なかった。そのためここで、私がどうしてA:Yを最初に選択したのか、そしてその考えが上記に記したものとどのように繋がるのかについて述べたいと思う。

 私がY:道徳を選択したのは、講義中に出された例から考え出した結果だ。その例とは、飲酒運転で捕まり社会的罰を受けた人を、企業がクビにする必要があるか否か、というものである。この問いに対し、必要がないと答えるものがXで、あるとするものがYである。私がこの問いを考えるにあたり重視した点は、上記でも重ねて明記したように、自由の尊重だ。つまり、光と影、権利と義務がともにあるように、自由が尊重されるならば、人々は自らの自由に対してそれなりの責任を負わなければならない。行動の自由を人々に与えたとしても、その結果を個人に負わせなければ、人は自由を活かせないからだ。それゆえ自由を基盤とする社会は自己責任の社会である。これより、自由を他者との連帯を求めるものに成らしめる法を犯すという重大な罪を負った者を、一つの国とも言える企業が排除しようとするのは至極当然であると私は考えたのだ。このように例から導くとYとなるのだが、プリントに書かれた(1)から(4)を読む限りでは、どちらかと言えばXに同意してしまう。そのためレポート自体は修正しなかったのである。しかし、上記のレポートでは批判した「一定の商慣行に埋め込まれた」という言葉、そして企業が社員のプライベートにまで首を突っ込むという点が、この例のように、他者と協調する自由を守り責任を負わせる場合に必要であるならば、(3)、(4)にも賛成し得るだろう。(859字)

 

 

2007年5月2日

「政治経済学U」小レポート第2 回目

経済学部経済学科3年 川村奈々美

 前回のレポートでは、私は非包摂主義を支持する立場だった。しかし、課題として出された@派遣社員問題Aマクドナルド問題Bたばこ規制問題C金利グレーゾーン問題Dホワイト・エグゼンプション問題を考えるにあたって、そう断言できないことが分かった。以下では、1を祭司権力型、2を主体化型、3をヒューマニズム型、4をサバイバル型として、5つの問題に対する各回答を検討していきたいと思う。

 まず@について。1の考え方は労働雇用法を緩めることを許さず、全て正社員化することを求めている。これは多様な働き方を選択する自由を奪っている点で賛成できない。次に2は、3年間勤めたら正社員へ昇格させるというものだ。これは各企業が個別に定める方針としては良いとしても、国が強制することではないと思う。それは1で述べた理由もあるし、次のようなことも考えられるからだ。確かに、新入社員の離職に悩む企業にとって、この制度だと退職金等の心配が減るから、都合が良く雇いやすくなる。そして自分にあった職場を探す熱意ある社員にとっても、3年間は正社員という束縛がないために動きやすく、労働人口の活発な流動性が見込まれるかもしれない。だが一方、3年間雇ったら必ず正社員にするというのは、業績が好調な時は良くても、不調になれば必ず企業の重荷になるはずだ。そうなると、3年間だけ雇ったらクビにするという企業が出てくる恐れがある。したがってこのようなケースを考慮すれば2には賛成できない。次に3は派遣社員を認めるが不当に差別してはならないというものだが、これに関して特に異論はない。能力のある者はそれなりに評価される社会でなければ、今後のグローバルな世界では生き残っていけないからだ。4はどのような雇用形態も構わず、全て自己責任によるという考えだが、人々の所得格差が生じる恐れから合意できなかった。

 続いてAについて。1の答えは、「政府は日本食の普及に努めよ」というものだが、これは別に強制するわけでもないということから、特に反論はない。だが2は、ファーストフードを禁止するという強行的態度で、人々の食の自由を奪っていることから反対だ。そもそも、これは全国に展開するマクドナルド等の営業を著しく妨害する行為であり、そこで働く人々の販売する自由も侵害している。何事も度が過ぎれば悪影響はつきものであって、ファーストフードだけが他の食べ物と比べて極めて有害というわけではないはずだ。次に3は、「自由化するが肥満による病気には無償の治療を施せ」というものである。確かに、福祉国家として医療費の一部を負担するのは良いとしても、怠惰に太った人々のために、国民の税金を対価として無償の治療を施すというのはおかしい。ファーストフードを食べまくるという自由を満喫したならば、それに対し自らが責任を負うべきだ。4.については自己責任で一切の干渉をしないということだが、前述した通り、医療費の一部負担ぐらいの政府の介入は許されると思われるので支持しない。

 次にBについて。1のように、たばこを吸わせないため広告したり高い税金をかけたりという方法は既に行われているので、特に反論する気もないし、この行為はむしろ推進すべきだと思う。何故なら、受動喫煙により他者の健康に生きるという自由を害するたばこは、その存在自体が忌むべきものであると考えれば、当然規制すべきだからである。2の政府が禁煙プログラムを組み、たばこの正確な知識を与え本人が納得して禁煙できるようにするという方法もとても良いと思うが、それは別に国ではなく民間でも可能であるため肯定しない。続いて3は「喫煙者の権利を認め、分煙対策をせよ」というものだ。1で述べたように、他者の健康に過ごす自由を害するたばこは悪であると私は考える。だがこれは同時に、他者を侵害しなければ喫煙も許されるということを意味するので、3にも同意できる。4.について、都市部を禁煙ゾーンにし、喫煙する者は雇用しないというのは、全国民にたばこの害について啓蒙し、禁煙が暗黙の了解となる時代の流れがあるならば可能であると思うし、個人的には支持したい。だが、現在の日本ではたばこの需要は一向になくならず、たばこの製造や売買によって生計を立てる人、たばこの税金によって恩恵を受ける人々がいることは事実なのである。この現状を考えると、少なくとも日本では不可能ではないかと思われる。

 次にCについて。1は政府が低利の貸付を行うというものだが、現在の政府にそんな懐の広さはないのではないか。政府のカバー力と国民の期待に大きなギャップが生じている今日、各地では政府よりも市民の活躍に注目しているのであり、このような考えはもはや通用しないように感じる。また、昨年実際に見直されたが、グレーゾーンの禁止についても積極的には同意できない。もちろん、4人に1人が借金を背負っているような日本の現状を考えると、債務者保護のためにグレーゾーンを禁止する必要性があることは分かる。だが上限金利の引き下げにより、貸金業者が貸し渋り、倒産に追い込まれる業者等が多数出る恐れがあるのではないだろうか。そしてまた、相手が倒産したとしても、貸し付けていた債権は残るのだから、これがヤミ金融へ譲渡されれば、苛酷な取立てが横行するかもしれない。このことに関し、現実社会では実際にどうなっているのか調べてみると、06年4月にアイフルが違法取立てで業務停止処分を受け、8月にはアコムが金融庁から再検査を受けるなど、貸金業界に対する風当たりが強まり、このような心配はかき消されたようだ。次に2について、「返済計画を立てさせよ」ということには特に異論はない。最近でも、貸金業者のCMで返済計画をアピールするものもよく見受けられるので、これからは借金をするためのマナーのようになっていくのではないかと思う。「多重債務を禁止せよ」については、若干の不安がある。もちろん、貸金業者の法整備が成され、前述の返済計画のような債務者保護策がきちんと整った状態ならば禁止しても良いだろう。だが、まだ市場が揺れている段階でいきなり禁止すると、借り手の規模が著しく大きいことからも、消費者信用市場、ひいては日本経済に多大な影響があると思われる。3の「違法な取り立てを禁止し、破滅者の人権を守れ」については、全くその通りだと思う。実際、業界大手のプロミスは、06年9月に命を担保にするような「消費者信用団体生命保険」をかける制度の廃止を決定している。そしてこれに追随する動きが広がっているという事実からも、破滅者の人権保護に関しては、今後もっと考慮されていくだろう。4に関しては、1998年に韓国が金利の完全自由化により、平均利率が220%になったという実例を聞く限り、とても賛成はできない。

 最後にDについて。1「エグゼンプションを認めず、全ての働きすぎを制約せよ」については、政府の干渉度合いが高すぎると思う。もしこれを突き通してしまうと、組織として機能しない会社が出てくるかもしれないし、仕事を生きがいとする人の働く自由を奪う結果となるかもしれない。2については時間の自己管理をさせるということだが、これは別に政府が主導しなくても、時間の自己管理に不安がある人が民間のセミナーに通うなどして個別に実行すれば良いはずだ。3「エグゼンプションを認めるが、過労死認定を強化せよ」については、反対する理由はない。講義中教授もおっしゃっていたが、内閣府の分析によると、2005年時点の全産業の労働生産性は、米国を100とすれば日本は71にとどまる。ユーロ圏の87、英国の83、さらに経済協力開発機構(OECD)加盟国平均の75を下回って、日本は主要国中最低の水準なのだ。このように、日本は無駄な残業が多く、先進国でも労働生産性が著しく低いという事実に鑑みても、この制度は将来必ず導入されるだろう。また、週60時間以上働いている人が全体の約20%も存在する現状では、過労死認定をより整備していく必要があると思う。最後に、4「残業代をゼロにして時間管理を各人に委ねよ」については合意できない。講義の話より、これはホワイトカラーが労働時間規制対象外となり、たとえそのために過労死してしまったとしても放って置くというものであると解するので、道徳的に問題があると思われる。このような考えが充満すれば、社員を過労死させてしまうような無謀な仕事を課す劣悪な会社が増殖しかねないのではないか。

 以上のように、やはり社会は他者との調和に基づく自由を最大限に認め、道徳的精神を守るためにも、政府の一定の介入を許す柔軟さを保つべきだということが、私の一貫した考え方である。ちなみに5つの問題に対する各意見に合意するものを○、しないものを×、答えられないものを△として表で示すと、以下のようになる。

 

 

@

A

B

C

D

E

1祭司権力型

×

×

×

2主体化型

×

×

×

×

3ヒューマニズム型

×

4サバイバル型

×

×

×

×

×

×

                             

上記のように○の数から判断すれば、私はヒューマニズム型であるということが言えるだろう。

 

※Eは課題に含まれていないが、少し補足する。まず1と2について特に異論はない。何故なら会社が今や社会的役割を担っていることも、組織内による分業、責任分担も、現に多くの会社で実行されているからである。これは01年のエンロン事件を一つの契機として始まった、コーポレート・ガバナンスを見直す大きな時代の流れであり、企業が存続するためにはもはや逆らえないものだ。3については、その会社がどのような組織なのかにもよると思うので答えられない。例えば情報の非対称性があり、従業員が会社全体のことを把握できないようならば、彼らが口をはさむとかえって議論を困惑させる結果になってしまう。4については、@からDと同様に反対だ。株主の利益最大化を求めすぎ、これまで社会に様々な弊害を起こしてきたという現実を忘れてはならない。

4,073字)